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谷戸、里山は今や貴重な存在と成っていますが、そもそも多摩の原風景と言えば当にそれでした。 このブログではそんな多摩の原風景をご紹介し、未来にこの素晴らしい風景を伝える一助と成ればと思って開設しました。 また記録の意味も含めて、宅地化されて失われてしまった谷戸や、人工の谷戸や里山も紹介します。
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神奈川県横浜市港南区の旧上永谷町の地名をまとめるにあたり、この区域の複雑な歴史経緯と比定範囲の設定について触れておこうと思う。
そもそもは上永谷、下永谷は鎌倉郡に属す一つの永谷村という村であった。
その後、周辺各村と一部平戸村飛び地を併せ、永野村が誕生しこの時に永谷として同村の大字になり、その後に横浜市に編入した際、中区の大字となったが、この時に上下分かれて、上永谷町と下永谷町が誕生した。
そもそも永谷村は広大であり、村を分けて永谷上村と永谷中村としていたこともこの上下を分ける理由になったのだろうと思う。
さらにその後南区に編入、南区から港南区が分区する際に当地も港南区の大字となり、10年ほどしてから住居表示実施に伴い、上永谷などが新設され、近年になって再度住居表示行い下永谷等が誕生するに至っている。
これらの経緯からかつての村域と現在の町域を併せて稿をたてることが大変難しく、港南区上永谷町としての区域を中心にまとめることとした。
地名はかなり大きな字にまとまっており、地租改正等で効率よく纏めていったものと思われるが、古い資料を見ても小名の名は多くない。
そればかりかこれまでの傾向では余り多くなかった、谷の集落名が谷戸名ではなく通常地名として記録されており、現在も地域名としてそれらを用いたりしているようだ。
現在は京急ニュータウンの一環として大きな開発が行われ、まったく風景を変えてしまった当地であるが、もともとの複雑な谷と山からなる地形を知ると、ここまで開発を進めたことはある意味で驚嘆に値する。
なお、南部日限山の地について補足をしておくなら、この地名はそもそもこの地にあった地名を由来とするものではないといえる。
由来となったのは当地に有る「日限山地蔵」という地蔵であるが、癪に悩む農民の伝説として、伊豆日限地蔵の分身を勧請したという話が伝わっている。
この説に則ってみると、地蔵の分身は横浜の高野山とも言われていた山深い地にある、吉岡山という山であり、そこに分身を勧請したことで日限山地蔵が誕生、それを由来として日限山の地名が生じたことになり、由来は伊豆の地蔵であるとすることができるだろう。
このような歴史の逸話を開発が飲み込んでしまったかのような当地だが、注意深く見ると公園名などに古い地名が残されていることがわかり、なんとなく安堵してしまうのは私だけではないかもしれない。

地名の拾い上げと比定には以下の資料用いた
「港南区小字地図」「今昔マップon the web」「区民企画運営講座こうなんの歴史資料」「横浜じゃん旅行社 散歩の閑人」「横浜三千分の一地形図」「google」「みんなでつくるよこはまっぷ」


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