忍者ブログ
谷戸、里山は今や貴重な存在と成っていますが、そもそも多摩の原風景と言えば当にそれでした。 このブログではそんな多摩の原風景をご紹介し、未来にこの素晴らしい風景を伝える一助と成ればと思って開設しました。 また記録の意味も含めて、宅地化されて失われてしまった谷戸や、人工の谷戸や里山も紹介します。
[9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

川崎市宮前区の鷺沼、宮前平などの駅を中心にかつては馬絹村という村があった。現在も地名の一部は引き継がれているものの、大半は新地名となり、街区がひしめく地区になっている。
この地は村域の変遷が複雑で有り、かつ軍用地の接収などもあり、地名資料もその区界を曖昧にしまえしていて、地名の分布も有馬村・土橋村とかぶる部分が多い。
古い地名を見ると、特徴は丘陵部の村に多い典型に当てはまると思う。谷戸、耕地、山といった風景と、地形地名に信仰地名がほとんどで有り、特筆すべきものがあるわけではないが、ひしめく町並にそれらの地名を当てはめてみると、この地の風景が抜本的に変遷した実感がこみ上げる。

地名の拾いあげと比定は以下の資料を活用したので、謝意と共に。
「川崎地名辞典(日本地名研究所)」「今昔マップon the web」「マピオン」

比定不能地名は以下
・高札場・・・字長坂の下にあり
・下神戸・・・村の北
・上神戸・・・乾の方



より大きな地図で 馬絹の地名 を表示
PR
川崎市宮前区土橋はかつて土橋村という村であり、その村域は現在の土橋より広く、宮前平や宮崎となった地の一部も含まれていた。
この地名は川に土橋が架かっていたことに由来することが多く、村域には矢上川が流れていた。
地名の多くは丘陵部の典型的なものであり、多くが谷戸や地形を表すものである中、やはり産鉄と結びつく地名も見つけられる。

地名の拾いあげと比定は以下の資料を参考にした。謝意と共に紹介したい。
「川崎地名辞典(日本地名研究所)」「今昔マップon the web」「マピオン」

比定不能地名は以下の通り
・高札場・・・小名太田前にあり
・大野原・・・村域北より東に係る地
・新宅アラク・・・旧家分家筋のものが開墾した場所



より大きな地図で 土橋(川崎市)の地名 を表示
川崎市宮前区にある平は東名高速が走り、宅地の広がる地域であるが、その中に農地や旧集落の姿の残る場所である。
かつては平村という山間集落で、平瀬川の流域に耕地が、そして四方の丘陵地には多くの谷戸や沢が流れていた。
平村の由来は平地の地形と思いがちだが、丘陵部に位置するため、それは当てはまらない。
実はこの地に住んだ葛山平(くずやまたいら)という人名に由来するのだそうだ。
地名の特徴は丘陵部に典型的なものであるが、特徴的なものは、長尾の項でも登場した別所があることだろう。
古代の産鉄製鉄に絡むとする説もあり、奥羽俘囚の移配に絡むとも言われるこの地名が長尾及び上作延、平と近隣に集中しているのは興味深い。

地名の拾いあげと比定には以下の資料を活用したので、感謝と共に。
「川崎地名辞典(日本地名研究所)」「今昔マップon the web」

比定不能地名は以下の通り
・水車・・・旧地番で平1074辺りだという
・葛山平屋敷跡・・・旧地番で平35辺りだという。
・かんゑき山・・・竹の沢の西にあり
この他、旧地番と新地番の対照表が手元にないので、比定の誤りがあるかも知れない。




より大きな地図で 平(川崎市)の地名 を表示
川崎市多摩区及び一部宮前区に旧長尾村の村域はある。
地区の合併変遷が複雑であったことも有り、かつての村域は区をまたいでおり、長尾、五所塚、神木本町、向丘などとなっており、各地域は住居表示済みである。
多摩丘陵の縁に位置し、西には藤子F不二雄ミュージアム、東には東高根森林公園を要する丘陵部、北の一部は古多摩川の氾濫原に位置し、二ヶ領用水が流れている。
丘陵部には大きな谷戸を中心として襞状の沢や谷戸地が入り込んでいたが、現在その多くは開削され宅地化されている。
地名に目を移すと「神木(しぼく)」という非常に特徴的な地名の他、多くの谷戸名があったようだ。
また古代の産鉄に絡むという説のある、奥羽俘囚の移配地と思われる別所の名もあり、この地に古くから人の営みがあったことを示すように、東高根森林公園からは弥生後期の遺跡が発見されているという。

地名の拾いあげと比定は以下の資料を参考にした、執筆関係者のご努力に敬意を込めて、ご紹介したい。
「川崎地名辞典(日本地名研究所)」「今昔マップon the web」

比定不能地名は特にない



より大きな地図で 長尾(川崎市)の地名 を表示
神奈川県横浜市青葉区下谷本町は上谷本町と同じようにかつての村域の大半は、藤が丘や千草台といったニュータウンとなっており、現在の町域は谷本川西岸の耕地部分のみとなっている。
かつての村域の多くは丘陵地で有り、この丘陵地に谷戸が入り込む典型的な多摩丘陵の村そのものであった。
現在はニュータウンとなったエリアに当時の痕跡を探すのは難しいが、一部公園として残された場所、地形に当時の起伏や谷筋が残っている場所、あるいはバス停名に昔の名前が保存されていたりする。
当地の資料は多い方ではないが、古い資料から引き出した地名を、地形を頼りに類推してみた。

地名の拾いあげと比定には以下の資料を参考にした。
「都筑郡中里村地番反別入図」「新編武蔵国風土記稿」「横浜じゃん旅行社web」「今昔マップon the web」

比定不能地名は特にないが、古い小名の比定精度は低い。




より大きな地図で 下谷本の地名 を表示
神奈川県横浜市青葉区上谷本町というと、谷本川の南岸の僅かな地に残る名前となってしまっているが、かつての村域はその南一帯に及び、現在のみたけ台、桜台、柿の木台、もえぎ野といったエリアを含む地であった。
その村域のほとんどを深い山が覆っており、山に食い込む谷戸と、川沿いに集落部のあるのどかな村であったものが、近年の開発で劇的にその姿を変えた。
すでに幽谷の風景は全く失われ、ひたすら街区が埋め尽くすニュータウンには、かつての地名を思い起こす暇すらない。
山深さを物語るかのように、かつての地名には木工職人や大工と言ったものを示す、六郎師、番匠などが見られ、地形の複雑さを示す「うは谷」なども古い地名として記録されている。
かつての小字を中心に比定したが、一部古い地名も地形類推で推定してみた。

地名の拾いあげと比定には以下の資料を用いた。
「都筑郡中里村地番反別入図」「新編武蔵国風土記稿」「横浜じゃん旅行社web」「今昔マップon the web」

比定不能地名は以下の通り
・柳畠・・・東よりにあり
・島根・・・北にあり
・五領・・・西にあり
・うは谷・・・仝
・金子塚・・・東にあり




より大きな地図で 上谷本(横浜市)の地名 を表示
神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾町は開発発展著しく、現在では青葉区役所も置かれる行政の拠点地域とも言える場所となっている。
かつては谷本川沿いの耕地と東側の丘陵部に刻まれた谷戸によって成り立つ村であったが、その姿を忍ぶものは、川沿いの耕地を除いて非常に少なくなっている。
地名の資料は手元に多くなく、調べればもしかしたら古い旧小名の類いがもっと出てくるかも知れないが、現時点では小字と僅かな小名だけの比定となってしまっている。

地名の拾いあげと比定には以下の資料を活用した。
「都筑郡中里村地番反別入図」「横浜市建築局都市計画課三千分の一地図」「横浜じゃん旅行社web」「新編武蔵国風土記稿」「今昔マップon the web」

比定不能地名は以下の通り
・元木・・・北の方にあり
・山崎・・・仝
・荏橋・・・仝
・てんか谷・・・巽の方を言う、これは川和村の天ヶ谷のことか
・姥カ淵・・・南の方を言う
・西ノ城・・・仝
・押廻し・・・仝

※情報提供により「朝光寺原」を加え、「宮地」の比定地と解釈を変更しました。



より大きな地図で 市ヶ尾の地名 を表示
神奈川県横浜市緑区西八朔町はそもそもは北八朔町と一村であり、針折郷と名乗っていたものが次第に転嫁し、八朔となり、これが北と西に別れたものであるらしい。
当地は街区の開発も著しいが、山や緑も多く残されており、新旧混交と言った風景となっている。
地名に関しては杉山社に因むや、修験に因むものが多く小名にあるようだが、比定に足る資料が無く、小字単位までがほぼ限界であった。
この辺りは情報が有り次第、追記していく形を採りたい。

地名の拾いあげと比定には以下の資料を活用させて頂いた。
「都筑郡中里村地番反別入図」「横浜じゃん旅行社web」「新編武蔵国風土記稿」「灰皿町みっちり7blog内杉山神社研究部分」

比定不能地名は以下の通り
・大明神山・・・杉山社旧座地、現社地の北西3町という
・腰まき・・・北の方にあり。大明神山下だという
・水蔵谷・・・東の方
・坊下・・・仝、大明神山付近であるとも
・四段畑・・・仝
・せん治谷・・・西の方にあり
・いなご原・・・仝
・警固場山
・七瀬
・神輿
・社人坊
・大門跡
・斎戒坂




より大きな地図で 西八朔の地名 を表示
神奈川県横浜市緑区北八朔町は谷本川西岸の丘陵地帯にある比較的小さな村域の村であった。
現在もその村域はそのままで、多くの地は昔ながらの光景を残している。
特に北にできた北八朔公園は榎谷と呼ばれた谷筋とその周囲の里山をそのまま利用することで、美しい原風景を保存している。
なお八朔というのは変わった地名であるが、古くは「針折」と書いたものが八朔になったものだと言う。
この地は資料は多くないのだが、バス停名などに旧小名と思われる名前のごく一部が残されており、手元の資料で集まるだけの地名を纏めてみた。
それでも丘陵部南の谷戸の名など不明なものは多く、聞き取りの必要性を感じる場所の一つである。

地名の拾いあげと比定は以下の資料を活用させて頂いた。
「都筑郡中里村地番反別入地図」「横浜じゃん旅行社web」「新編武蔵国風土記稿」

比定不能地名は以下の通りだが、これ以外にも多くの旧小名があるだろうと思われるので、情報提供を頂ければ幸いである。

・佐牟佐井・・・西によりてある
・森・・・東にあり。字柳森にあったか
・柳町・・・東にあり。仝
・蔵ノ下・・・東にあり。
・新池・・・西にある溜池




より大きな地図で 北八朔町の地名 を表示
神奈川県横浜市青葉区大場町は南北の谷筋を中心に集落が形成された長細い村域を持つ村であった。
東の一部をあざみ野の一部として分離したが、大部分は当時の村域のまま大場町となっている。また、住居表示も行われていないためほとんどの字が現役と思われる。
大きな村域ではないので字名も多くないが、旧小名を含むとある程度の地名数になる。
また村域北にある字子の神については、ちょっと面白い。
子ノ神の名は大抵子ノ神社に由来するものがほとんどなのだが、当村には子ノ神社を祀ったという記録がないようだ。一説には屋敷神として祀った家があったのではないかと言うが、個人的にはこれの元は小さな石塔か、古い堂の様なものだったのではないかと思う。
なぜなら菊地、柴田説でいう「このへ」、つまり「へのこ」の逆読みに由来する、男性のシンボルをかたどった石塔のことを指し、これが産鉄製鉄地に多く見られるという事と符合するからである。
それを裏付ける地名が小名にあり、字衛門ヶ谷に合併された地名として「多良ヶ谷」の記載がある。これは明らかに「多々良」のことで「蹈鞴」を指すものであろうと考えられるからだ。
このように古代は産鉄地であっただろう大場は、そんな歴史を感じさせないまでに近代化の波が押し寄せており、行き交う新住民もそんな歴史に思い巡らせることは皆無だろう。

地名の拾いあげと比定には以下の資料を活用したので、謝意と共にご紹介したい。
「都筑の皇国地誌草稿と字地書上(緑区郷土史研究会)」「今昔マップon the web」「横浜じゃん旅行社web」
尚、旧小名の比定にあっては場所を示す資料が無いため、地形などから類推したものがほとんどであり、正確さには欠けるものとなっているので、誤りがあれば情報提供を是非御願いしたい。

比定不能地名は以下の通り
・惣左衛門屋敷・・・字前に合併
・山伏堂・・・仝
・神明下・・・仝
・下原の内・・・字富士塚に合併
・千両屋敷・・・字衛門ヶ谷に合併



より大きな地図で 大場町(横浜市)の地名 を表示
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
[02/06 金井民]
[06/12 tanio]
[06/10 伊藤]
[05/24 管理人]
[05/23 伊藤]
[12/15 管理人]
[12/05 なめこうに]
[11/30 管理人]
[09/28 なめこうに]
[09/25 管理人]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
ベリリウム榊
性別:
男性
自己紹介:
音楽系の仕事の傍ら、多摩の原風景を求めて
歩き回っています。
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]