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谷戸、里山は今や貴重な存在と成っていますが、そもそも多摩の原風景と言えば当にそれでした。 このブログではそんな多摩の原風景をご紹介し、未来にこの素晴らしい風景を伝える一助と成ればと思って開設しました。 また記録の意味も含めて、宅地化されて失われてしまった谷戸や、人工の谷戸や里山も紹介します。
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稲城市大丸は南多摩駅周辺の再開発なども盛んな地で、いまや稲城市の中心地としての顔を持ち盛んに造成が行われている。
しかし丘陵部の多くの地は米軍のレクリエーション施設となっており、大規模な自然がそのまま残されている。この地はそもそも日本軍の弾薬庫として使われ、その後米軍に接収された経緯を持ち、早くからこの地に住んだものや、耕作をしたものは移動を余儀なくされていたとみられ、地名の記録も比定に揺れが多く、記憶が曖昧になってきているのかもしれない。
米軍用地に関しては、返還の話があり、再三にわたって請求がされているようだが、請求者は稲城市だけで無く、開発業者の名前も見られ、いったん返還されてしまえば一気に開発が進むことは明らかだろう。これだけの多摩丘陵の原風景がそのままになっている地も珍しく、ここが開発されて失われるぐらいなら、いっそ返還されずそのまま米軍用地として、この光景を次代に残してほしいと思ってしまうのは私だけだろうか。同じような経緯を持つ恩田のこどもの国のように、里山と一帯の整備がなされると良いのだろうが、現状の行政のあり方や方向性、市役所に近い稲城の中心部という位置からしても、それは望み薄であろう。
地名に関しても面白いものが多く、特に北部の丘陵には独特の地名が点在していたが、砂採りの歴史、その後の施設建設で根本的に失われてしまったのは、実に惜しい気がしてならない。
歴史を蹂躙するような開発は今すぐやめ、それらと共存でき、かつその土地に愛着の持てるようなあり方へ転換することが、次代への我々の役割なのではないだろうか。
極めていろいろな思いを持ってしまう、この土地の地名の比定には以下の資料を利用した。厚く御礼を申し上げたい。
「稲城市の地名と旧道(稲城市教育委員会)」「いなぎ歴史探検」「今昔マップon web」
比定府の地名は特にない。



より大きな地図で 大丸の地名 を表示
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稲城市百村は坂浜と並び、非常に原風景の色濃い場所であった。現在も南山地区を中心に、昔の多摩丘陵を追体験できる貴重な場所になっている。
しかし、この地の中心となっていた大きな谷戸「竪谷戸」は尾根幹線の工事で完全に消えてしまい、北部はゴルフ場用地、向陽台の開発が入り、大きく様変わりしたのは残念の極みである。
またずっとそのまま残っていたと言っても良い、南山地区も隣接の矢野口側を完全に開発することが決定し、続々と山が切られ、谷が埋められてしまっている。当地は開発予定区ではないが、大きく変貌していくのは間違いなく、この貴重な姿もいつまで残るのか予断を許さない。
開発は仕方の無いことだが、土地への敬意や愛着もなく、ただ土地が遊んでいるとの印象の下で開発を急ぐ姿は、実に浅ましい。里山、農村の村出身の稲城市は、行政としてもそれを劣等感ではなく、誇りに思って郷土の設計をなしてほしいと切に願うばかりだ。
地名に目を移すと、この地の性質が手に取るようにわかる。砂の多い地で、里山、谷戸、沢に満ちあふれ、山岳信仰も見え隠れする、古い地名が多い。
拾い上げと比定には以下の資料を活用させて頂いたので、ここに謝意を。
「稲城市の地名と旧道(稲城市教育委員会)」「いなぎ歴史探検」「今昔マップon web」
比定不能の地名は特にない。



より大きな地図で 百村の地名 を表示
稲城市坂浜は昔の多摩丘陵の姿をそのまま残している、非常に貴重な地区である。隣接の百村と共にこれほどに色濃い里山と谷戸、そして旧家の並ぶ光景を見ることが出来る場所は、多摩丘陵からは失われる一方で有る。
しかし坂浜は非常に広い面積を持っており、北部は若葉台として完全に造成され、近未来的な街が出来、昔の地名などお構いなしに、モダンな名前を付けた団地や街区が出来ている。対して南部は昔のままの姿で有り、この対比の激しさも当地ならではと言えるかもしれない。
地名もまた豊富で有り、趣深いもの、歴史を感じるもの、またもともと訛りの強い地域であったと伺える音転嫁地名とバラエティ豊かである。
最北部と南部の多くの地が、ゴルフ場に沈んでしまったのはもったいない限りだが、特に最北部の大丸境にある米軍用地は、もし返還されてしまえば、一気に開発されてしまうだろうと想像できるだけに、複雑な心境である。
地名の拾い上げと比定には以下の資料を活用させた頂いたので、この場を借りて深く御礼を申し上げたい。
「稲城市の地名と旧道(稲城市教育委員会)」「いなぎ歴史探検」「今昔マップon web」
比定不能の地名は特にない。



より大きな地図で 坂浜の地名 を表示
稲城市平尾はその南部は早くから開発が行われ、平尾団地を中心とするベッドタウンとなり昔の姿は消え去ってしまった。北部は一部はゴルフ場となるも、比較的昔の光景を残しており、黒川や坂浜と一体の里山の光景が色濃いが、近年そこにも徐々に開発の手が入ってきており、今後は予断を許さない状況となっている。
昔の当地は山間の農村で有り、谷戸と里山の広がる地であった。地名にもそれが色濃く残っているが、なかなかに難読の地名も多く、興味をそそられる。
この地は私が少年時代から青年時代まで、タケノコ掘りなどでよく訪ねた地であり思い出深いのだが、
つい先日まで谷戸の多く残るエリアがあり、懐かしい風景に心洗われたものだが、そのエリアにもついに開発が入りそれらの光景もまた過去のものとなってしまった。
このような多摩丘陵に残された自然や風土を顧みず、開発を強行するの稲城市の姿勢について重大な懸念と遺憾を表明したい。

地名の拾い上げ、比定には以下の資料を活用したので、ここで謝意を表したい。
「稲城市の地名と旧道(稲城市教育委員会)」「いなぎ歴史探検」「今昔マップon web」
比定不能の地名は特にない。また今回より山名を緑のピンで図示することにした。

※地図と本文の一部改訂を行いました


片倉は元々多摩丘陵奥の農村で、御殿峠、杉山峠の大きな峠を南に要し、村域は多くの里山、谷戸からなっていた。北部は川沿いの田畑で、そこには廃寺となった来光寺の名を残す字もあった。
しかし片倉台、北野台等の造成が入り、山は無残に切られ、谷は埋められて見る影もなくなってしまったのは非常に残念である。
のどかな雰囲気を残していた西部も、八王子みなみ野シティの造成で区画が大きく変わり、新たにできた西片倉なる地域になり、モダンな町が歴史を蹂躙してしまった。
多摩丘陵の農村の現代の姿に標準モデルがあるとしたら、当地はその典型に当てはまるのかもしれない。
そんな片倉の地名を少ない資料から拾ってみた。谷戸名に関しては細かいものまで調べられたが、多くの地名が名前だけの列挙に終わっているため、極めて乏しい手がかりを使って推定したため、非常に正確さに欠けるものとなっている。
このあたりは資料の限界も大きいので、地元での聞き取りを行わなければこれ以上は進まないだろう。今回の公開はあくまで暫定公開としたい。聞き取りの結果、非低地が大幅に変更される可能性が大いにあるので使用に当たってはご注意されたい。
地名の拾い上げ、比定には以下の資料を参考にしたので、ここに謝意を表したい。
「八王子事典(かたくら書店)」「みなみ野シティのルーツ 宇津貫・片倉 谷戸のくらし(宇津貫みどりの会)」「片倉物語(川端一郎)」「片倉物語 続(川端一郎)」「八王子片倉台の地誌(馬場喜信)」「今昔マップon web」「国土変遷アーカイブ」
比定不能地名はないが以下の地名は根拠に乏しい
●釜貫地区
ももんがー谷戸
十二匁
猿田
馬捨場
●車石地区
ねんぬき谷戸
小谷戸
大杉谷戸
ムジナ谷戸
●御殿山地区
そ馬捨場
笹谷戸
長窪
じい田谷戸



より大きな地図で 片倉(八王子市)の地名 を表示
八王子市大塚は多摩市の和田境にあり、さらに南は同じく多摩市の落合境という場所にある。かつては南北を丘陵に挟まれ、幾筋もの谷戸を開墾し農業や養蚕を行う農村であったが、南部はニュータウン区域となり鹿島、松が谷と造成され一大ベットタウンとなり、谷戸や里山の姿は消えてなくなった。北部の一部には懐かしい光景を残す場所もあるが、なかなか今から想像するのは難しい。
地名に目を移すとそれぞれの谷戸に名前を持ち、望地、梶川を始め、日暮などという地名があるなどした。北部丘陵にはかつての産鉄関係地名と思われる湯沢や吹き付けなどの地名があるなど特徴的である。
比定には以下の資料を用いたので、この場で各執筆者に謝意を示したい。
「皇国地誌 大塚村村誌」「八王子事典(かたくら書店)」「新八王子市史民俗調査報告書第2集八王子東部地域由木の民俗」「多摩ニュータウンの歴史さんぽ道(多摩市文化振興財団)」「大栗川・乞田川(小林宏一)」「国土変遷アーカイブ」「今昔マップon web」「八王子公園図録」「東京都耐震ポータルサイト」「大塚村絵図」
比定不能の地名は特にない。

追記
村絵図の発見等により地租改正前の小字についても判明し、また比定箇所の誤りも修正できたため、大幅な修正を行った。


八王子市東中野は南北を丘陵に囲まれ、中央を大栗川の作った谷が割る多摩丘陵の農村で有り、天野、谷津入、井戸ノ上の三つの地域でできていた。
各地域はそれぞれ独立の村のような機能を持っており、それぞれが小字であるものの、その中にさらに小字に相当する地名がたくさんあった。
現在は南の丘陵部は多摩ニュータウン区域となり、松が谷の造成で根本的に姿を変え、北の丘陵は一部を残すものの、多摩都市モノレールが貫き、中央大学、明星大学が建設されてこちらも変貌遂げた。
中央の耕地もまたひしめく住宅で埋め尽くされ、かつての面影は谷津入地区の一部にそっと残される程度になってしまったのは実に寂しい限りである。
地名の資料は公的なものこそ少なく、地域の全容をつかむのは難しいが、皇国地誌が残り、谷津入には谷津入地蔵由緒書きがその地名の多くを伝えるなど、地名の保存にあっては地域の尽力がうかがえる。
また特筆すべきは公園、バス停、歩道橋の名前におけるかつての名前の使用が非常に多いことだ。これは南陽台などそういった痕跡をほぼ消し去ってしまった造成地は見習うべき姿であると強く感じる。祖先が語り継いだ地名は文化そのもの、歴史そのもので有り、それを軽んじ安易に消し去るという考えは、明らかに土地への冒涜に他ならないからだ。東中野や隣の大塚のように積極的に名前を残している例は、極めて深い郷土への愛着を感じるすばらしい例ではないだろうか。
地名の拾い上げと比定には以下の資料を利用した。ここに感謝の意を表したい。
「皇国地誌 東中野村村誌」「八王子事典(かたくら書店)」「新八王子市史民俗調査報告書第2集八王子東部地域由木の民俗」「多摩ニュータウンの歴史さんぽ道(多摩市文化振興財団)」「東中野はわが故郷(小柳鹿蔵)」「大栗川・乞田川(小林宏一)」「谷津入地蔵御由緒書」「国土変遷アーカイブ」「今昔マップon web」「八王子公園図録」「東京都耐震ポータルサイト」
比定不能地名は以下の通り
●中央部分
田中前・・・用水堀に上堰があった
樋越・・・用水堀に中堰があった

●谷津入地区
先谷戸(せんやと)
白田谷戸
堀田谷戸
梅の木谷戸
川窪沢
老婆沢
瀧坂
傘松
内田・・・用水堀に下堰があった
大縄

・天野地区
芝鶴(しばづる)
中地(ちゅうち)
崩下(びゃくした)
坊坂(ぼうざか)
下袋

・井戸ノ上地区
しょわら


赤坂
しょうぶん
地蔵淵
下(した)
古川
馬捨場



より大きな地図で 東中野の地名 を表示
八王子市別所は多摩丘陵の奥にひっそりとたたずむ小さな寒村であった。それがニュータウン開発で劇的な変貌を遂げ、京王堀之内駅付近には巨大な高層建築が林立し、かつての谷戸はモダンな街路に生まれ変わった。町としての開発は割にきれいな光景をもたらしており、長池公園や蓮生寺公園など一部は昔の自然を残し、節操のない開発は避けられたのかもしれないが、あまりの変貌ぶりに古くからの住人にはそれがどのように映ったのだろうか。
そもそも別所という地名は菊池山哉の説や、柴田弘武の研究に寄れば大和王権による、日本の先住民であるエミシの討伐と、これを捕らえた俘囚を各地に移配した地を言うのだそうで、特に柴田に寄ればこの先住民が持っていた製鉄の技術を欲するところから、別所に移配した俘囚を製鉄に携わらせたのではないかと言う非常に古い地名である。
別所には東光寺が置かれ、薬師堂がおかれることが多いとの研究も有り、この地にも薬師堂があったことが知られており、また村の鎮守の蓮生寺も元は東光寺であった可能性があるのだという。
さて話を知名に移すと、この地は八王子にあって最も地名資料が乏しい地域だと言える。皇国地誌や村明細は残っているものの、それがすべてと言ってもよいほどで、新編武蔵風土記稿などは意図的に避けたと思えるほどに内容が薄い。
八王子市としての資料も最近の由木の民俗の資料が出るまでは、ほぼ皆無であり、また開発後も一部の公園に残された地名以外はほとんど残されておらず、なにやら不可解さすら感じるほどである。
そのわずかな資料にある地名をできる限り纏めて、大幅な推量を含むもののとりあえず形にしてみた。先述の通り文献も少ないので、この地の地名資料としては貴重な情報源となるのではないだろうか。
地名の拾い上げと比定には以下の資料を利用した。感謝の意を表したい。
「皇国地誌 別所村村誌」「新八王子市史民俗調査報告書第2集八王子東部地域由木の民俗」「多摩ニュータウンの歴史さんぽ道(多摩市文化振興財団)」「国土変遷アーカイブ」「今昔マップon web」
比定不能の地名は以下の通り。
三反田・・・別所川に三反田堰が架かる
とご・・・別所川にとご堰が架かる
また資料が少なく、各地名の場所比定はほぼ推量によるもので、正確度はかなり低い。
この地の地名についてご存じの方は是非ご連絡、ご協力頂けたらと思う。



より大きな地図で 別所(八王子市)の地名 を表示
八王子市堀之内は大きく北部と南部に分かれており、南部の南堀之内は多摩ニュータウン区域内となり開発が進んだ。対して北部は地元の方のご努力もあり度重なる開発の話にさらされながらも、昔ながらの里山と谷戸田の風景を残している。また、早くから酪農も盛んであり、現在も酪農を営んでいる方もいるなど、この付近では最も昔の多摩を感じられる場所といってよいと思う。
それでも徐々に丘陵は切られ、住宅地が浸食しているが、開発会社もこの地を残すことの意味とご苦労に少しは敬意を持ち、節操のない開発は考え直して頂きたいと切に願うばかりだ。
地名に目を移すと、残念ながら皇国地誌の消失などもあり、資料が非常に少なく、江戸期の小名以外には地元の方の語り継いでいる地名がほぼすべてといった状態であり、拾い上げ比定はかなり難しい。
それでも残存するものから拾った地名を纏めてみたが、やはりこの地に関しては聞き取りを本格的に行わなくてはならないと感じる。
拾い上げと比定には以下の資料を用いた。ここに感謝の意を表したい。
「八王子事典(かたくら書店)」「新編武蔵国風土記稿」「新八王子市史民俗調査報告書第2集八王子東部地域由木の民俗」「多摩ニュータウンの歴史さんぽ道(多摩市文化振興財団)」「南八幡宮 Web」「国土変遷アーカイブ」「今昔マップon web」
以下の地名は比定に足る資料がなく現在は場所が判然としていない。
・有竹・・・有竹堰が大栗川にかかる
・八段目(八反目)・・・八段目(八反目)堰が大栗川にかかる
・堰山下・・・溜め池がある ほぼ判明


より大きな地図で 堀之内(八王子)の地名 を表示
八王子市松木は越野、由木、別所、南大沢の間にある小さな村で、南大沢から続く太田川の削った谷に田を、その下流部は大栗川に向かって開けるものの、谷の両端は峰に囲まれるという土地柄であったが、近年は開発が進み、丘陵部の一部に緑を残すものの大部分は宅地化されて、それほど目につくようなものもない土地となっている。
しかしこの地には武士の館跡の旧跡が多く、歴史的には重要な意味のある土地であるのは興味深い。
この土地はあまり資料が多くはないのだが、少ない中から地名を抜き出し纏めてみた。
拾い上げと比定には以下の資料を利用した。併せてその執筆者に感謝の意を表したい。
「皇国地誌 松木村誌」「八王子事典(かたくら書店)」「新編武蔵国風土記稿」「国土変遷アーカイブ」「今昔マップon web」
比定不能の地名は特にないが、以下の地名の場所については推量の域を出ない。
・おかんとう
・内田
・広町
・上
・滝の下



より大きな地図で 松木の地名 を表示
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音楽系の仕事の傍ら、多摩の原風景を求めて
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